上がり框とは?
- 玄関に段差が設けられて、腰をおろせるようになっているとき、その腰をおろす部分にあたる水平材のこと。 高価な材が用いられることが多い。 不動産投資になってしまったが、言語として消え去ったわけではない。俗ラテン語が蛮族の言語と混じり合って、イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ルーマニア語、ロマンシュ語といった現代のロマンス諸語の起源となった。また英語、ドイツ語、オランダ語などのゲルマン語派にも、ある程度の影響を及ぼしている。ラテン語の「純粋な」かたちはカトリック教会において余命を保ち(ミサの挙行では1970年までラテン語が使われた)、多くの国々でリングワ・フランカとしての役割を果たした。過去においては論文や理論書の執筆にラテン語が使われており、今でも医学・法律学・外交の専門家や研究者に利用されている。ちなみに学名のほとんどがラテン語である。 ラテン文字は、J、K、W、Zが付け足され、文字数が増えた。ローマ数字は(たとえば時計の文字盤や本の章立てにおいて)依然として使われているものの、ほとんどがアラビア数字に取って代わられた。 ワラントの支配者による強大なキリスト教帝国としてのローマという理念は、多くの権力者を魅了し続けた。フランク王国とロンバルディアの支配者カール大帝は、800年に教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠された。これが神聖ローマ帝国の由来であり、フリードリヒ1世やフリードリヒ2世は「ローマ皇帝」の名目からイタリア半島の支配に固執し、カール5世はヨーロッパと新大陸にまたがる世界帝国の盟主となった。東ローマ帝国が滅びると、モスクワ大公は全ルーシ(ロシア)のツァーリを称し、「第3のローマ」の皇帝を自任するようになった。これだけでなく、東ローマを滅亡させた当の(しかもキリスト教国ですらない)オスマン帝国のスルタン(たとえばメフメト2世やスレイマン大帝)は、(コンスタンティノポリス総主教を庇護することにより)自分をローマ皇帝と主張した。しかし、ローマ帝国の再生の目論見に成功した者は誰一人としていなかった。 西ローマ帝国の最も重要な遺産は、カトリック教会である。カトリック教会は、西ローマ帝国におけるローマの諸機関にゆっくりと置き換わっていき、5世紀後半になると、蛮族の脅威を前にローマ市の安全のために交渉役さえ務めるようになる。蛮族が侵入するにつれて多くの改宗者を生み出すと、中世の中ごろ(9世紀〜10世紀)までに中欧・西欧・北欧のほとんどがカトリックに改宗して、ローマ教皇を「キリストの代理者」と称するようになった。 西ローマは、帝国として倒れてからも、ゲルマン人やスラヴ人に最終的に勝利し、これらを圧倒した。教会に援助された宣教師が北の最果てまで派遣され、ヨーロッパ中に残っていた異教を駆逐したのである。 しばしば、「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」のいずれが正しい呼び方なのかという議論があるが、当の帝国政府や住民は自国を単に「ローマ帝国(ギリシア語:Βασιλε?α των Ρωμα?ων, Basileia t?n R?mai?n)」と称しており、彼らが「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」といった呼び方をしたことはない。帝国の一般民衆は、自国を「ローマ人の土地(Ρωμαν?α, R?mania)」と呼んでおり、また彼ら自身も「ギリシア人(?λληνε?, Hell?nes)」ではなく「ローマ人(Ρωμα?οι, R?maioi)」を自覚していた。 くりっく365は、すでに帝国が滅びて久しい19世紀以降に使われるようになった通称である。これらの通称はあくまでも古代から1453年まで続いたローマ国家の一時期を指す呼称で、以下に述べるように、いわゆる「古代ローマ帝国」とは文化や領土等の面で違いが顕著であるため便宜上用いられているにすぎない。(そもそも古代から文化や領土に変化がない国などごく少数である。ビザンツという呼称ができたのも、当時の歴史家が、東ローマを古代ローマから続く国家と見なしたくなかったからである。)なお、「ビザンティン」は英語の形容詞 Byzantine に、「ビザンツ」はドイツ語の名詞 Byzanz[1] によるもので、いずれも首都コンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来している。都市ローマを首都とする国家がローマ帝国であるなら、ビザンツを首都とする国家はビザンツ帝国であろうという命名である。日本語での呼称は、歴史学では「ビザンツ」が、美術・建築などの分野では「ビザンティン」が使われることが多い。 カール大帝の戴冠による「西ローマ帝国」復活以降は、西欧でこの国を指す際には「ギリシアの帝国」「コンスタンティノープルの帝国」と呼び、コンスタンティノポリスの皇帝を「ギリシアの皇帝」と呼んでいた[2]。例えば桂川甫周は、著書『北槎聞略』において蘭書『魯西亜国誌』(Beschrijving von Russland )の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。ローマ帝国の継承者を自称したロシア帝国であるが、ルーシの記録でも東ローマを「グレキ」(ギリシア)と呼んでおり、東ローマ帝国をギリシア人の帝国だと認識していた。 外為はその他の欧州諸地域では独自の立場からをさまざまに呼ばれてきた。しかし、西欧におけるこれらの議論に関しては、彼らが東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立してきた経緯や、議論がなされる中で東ローマ帝国の主張が彼らの価値観によって相対化されてきたことを勘案する必要があろう。彼らにとっては、カール大帝とその後継者たちや神聖ローマ帝国の皇帝こそが「ローマ皇帝」だったのである。 このような考え方に基づく呼称は、日本における呼称として適切・中立的でないとする見解もある。この立場は日本の学界の一部では古くから主張されており、そこでは「中世ローマ帝国」の呼称が提案されてきた。この呼称はなかなか普及しなかったが、近年、学校教育における教科書において採用されようやく一般の読書人にも知られるようになった。 初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、キリスト教(正教会)を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、一時は旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有していた。しかし、7世紀以降は相次いだ戦乱や疫病などにより地中海沿岸部の人口が激減、長大な国境線を維持できず、サーサーン朝ペルシアやイスラム帝国により国土を侵食された。8世紀末にはローマ教皇との対立などから西方地域での政治的影響力も低下した。 外為と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。「ローマ帝国」と称しつつも、住民の多くがギリシア系となり、7世紀には公用語もラテン語からギリシア語に変わった。これらの特徴から、大阪市立大学文学部教授の井上浩一は、7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評している。前述の「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。 9世紀には徐々に国力を回復させ、皇帝に権力を集中する政治体制を築いた。11世紀前半には、東ローマ帝国はバルカン半島やアナトリア半島東部を奪還し、東地中海の大帝国として最盛期を迎えたが、それも一時的なもので、その後は徐々に衰退していった。11世紀後半以降には国内の権力争いが激化し、さらに第4回十字軍の侵攻と重なったことから一時首都コンスタンティノポリスを失い、各地に亡命政権が建てられた。その後、亡命政権のひとつニカイア帝国によってコンスタンティノポリスを奪還したものの、内憂外患に悩まされ続けた。文化的には高い水準を保っていたが、領土は次々と縮小し、帝国の権威は完全に失われた。そして1453年、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。 日本ではあまり知られていないが、古代ギリシア文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されている。また、近年はギリシャだけでなく、イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。 ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青色部分)。青と緑色部分はトラヤヌス帝時代のローマ帝国最大版図。赤線は東西ローマの分割線東ローマ帝国は「文明の十字路」と呼ばれる諸国興亡の激しい地域にあったにもかかわらず、4世紀から15世紀までの約1000年間という長期にわたってその命脈を保った[3]。その歴史はおおむね以下の3つの時代に大別される。なお、下記の区分のほかにマケドニア王朝断絶(1057年)後を後期とする説がある。また、コンスタンティヌス1世がローマからコンスタンティノポリスへ遷都した330年をもってビザンツ(東ローマ)帝国史の始まりとする場合もあり、たとえば著名なビザンツ史学者ゲオルク・オストロゴルスキーの『ビザンツ帝国史』では遷都直前の324年から始まっている。